2008年2月3日日曜日

20080203

今日はホワイト節分らしい笑。
兆しのキーワードに出てた。

最近、野地 秩嘉著の「企画書は一行」という本を読み直している。
読み直している理由は、企画書とはなんぞという疑問が最近、頭によくよぎるからだ。

企画書=フレームの踏襲なのだろうか?
僕の疑問はここである。

もちろんフレームで考えていくことは物事を効率的にすすめていく上では必要になるものだと思うのだが、そもそもすべてに当てはまるフレームは存在しうるのだろうか?

フレームというのは、こういうゴールに対して論理を組立てたい、だからこうするのが良いのではないかというあくまで事象に対してユニークなものであると僕自身は考える。3Cフレームだって、SWOT分析だってそれが何の為に必要なのかという前置きが重要だろう。
とすれば、ビジネス書に書いてあるようなフレームに当てはめて説得力のある論理が成り立つかというと否である。

では、なぜ人はフレームにはめることに陥ってしまうのだろうか?
僕自身思うのは、フレームにはめることは楽だからである。

とにかく、こういう流れで、こういう風に、まとめればこういう結果が出るはずですという机上の論理を展開すれば、やることは分かるのでとりあえずその場は進む。しかも、これを繰り返していくとなんとなくのやっている感、進んでいる感はあるので、進んでいない倦怠感からは解放される。

また、そのやっている感は、回りの人への自分の介在価値アピール=承認欲求につながっていくためにこのサイクルは回りやすい。またプロジェクトにおいては、その介在価値の大きさが発言権、権利行使のよりどころとなってしまうことも多いため、このサイクルで進んでしまうことが多いように思う。

しかし、こういう進み方をすると、そもそも何がやりたかったのか?というところでつまづくし、積み上げてしまったものを今更壊せないというなんともいえないジレンマに陥る。こうなるとかなり悪循環で、プロジェクトの目的も発表に会わせる為に資料を作るみたいになってきてしまう。

では、フレームにとらわれないとすると企画書に必要になってくるのは何か?
それは、この本によれば「伝えるべき一行のメッセージ」である。

これはなんとなく分かっていたことなのだが、あらためて認識してみると奥が深い。「一行のメッセージ」に今まで検討をして来たことを全て詰め込み表現する作業は、かなり難しい作業だし、物理的制限がある社内プロジェクトなどにおいてこのことに時間を割くことは敬遠されがちな気がする。

なので、少し考え方を変えて行くことが必要だ。
つまり、今までは、企画書をいかに形にするかが一番コストのかかる部分ととらえられていたが、実際は、何を伝えるのかさえ得られれば、あとは順調に進むので、「一行のメッセージ」を吟味する時間にコストを割くようにしないといけない。

今回はここでのコンセンサスが取れていなかったように思う。
メッセージが決まれば後のコストはそんなにかからない、だからここにこだわるんだということが伝わらなかった。結局少しでもぶれてしまっては、価値観が衝突して伝わらない。



何を伝えたいのか?
一行にとことんこだわっていきたいと思う。