2008年11月3日月曜日

つながることば



ちょっと前に買った「広告
博報堂が出している季刊誌。


9月号は「ことばの特集」ではっとすることがたくさん見つかって好き。
ちょっと行き詰まったときとかに読み直したりする。


だから、もう12月号が出ているんだけど、やっぱり9月号。


好きなところを抜粋。
したら長くなちゃった。


○岩崎俊一(P18-19)
「ことばは、発見する」

ことばはつくっちゃいけない、それはもうすでにこの世のどこかにあって、僕たちはそれを見つけ出してくる、それを発見するのがコピーライターの仕事であるということです。いいコピーは、非常に無理のない形をしていて、無理のない響きを持っていて、ただずまい自体が美しい。


○山本高史(P20-21)
「言葉ロック」

ロックというは破壊とか否定なんだけれども、ところがただ壊せばいいと持っているわけではない。その後に自分のフレームを建てるという実はすごく建設的な行為であると思っていて、だったらそれを、言葉でできないかなというふうなことを考えたりして。<中略>
つまり単におもしろがって、そこにあるものじゃなくて、それを世の中の改善のためと状況の改善のために使うということを前提で、もう一度言葉を整理しなきゃいけないと僕は思うんです。


○宗形英作(P22-23)
「耳から入る言葉」
 
→ 考えが自分としっくり来すぎてびっくり体験でした。この人と何かやってみたいなんて僭越ながら思ってしまったり。


・・・改めて「ひらがな」は、音のことばだなと思ったんです。やまとことばは文字を持たなかった。中国から感じが入ってきて、その感じをひらがなに治して行くことによって文字になったという経緯があります。その意味で、ひらがなは、話しことばの中心になるんじゃないかと思うんです。


今は情報が多すぎて、情報が情報のノイズになっている。何が大事な話かわからないし、何が一番必要なのか情報かも分からなくなって、全部が横並びになってしまっている。情報を整理していく機能みたいなものが弱くなってきているんじゃないかと考えたときに、ひらがなに置き換えられないことばは、もしかしてそんなに必要なことではないのかもしれないと思います。


大切なことは実は簡単なことなんじゃないか。大切なことが忘れられているから、今、世の中がすごくややこしくなっている。愛することとか、人を思いやることとか、大切なことは、昔から語りつがれているようなことばの中にあるんじゃないでしょうか。


ある種、語りだけで相手がイメージできたり、相手が納得できたりするようなコミュニケーションが、すごく大事なんじゃないかなと思いますね。それに、素晴らしいアイデアというのは、たくさんのことばを費やさなくても、シンプルに、語りかけることばだけで相手が理解できるものです。そういう意味で、音で伝わるコミュニケーションが、今ちょっと置き去りにされ、その分なにかが失われている感じがします。


<中略>


大きく分けると、ことばの役割は2つなんだろうと思います。それは「考えるためのことば」と「伝えるためのことば」。


今、その「伝えるためのことば」が饒舌になりすぎている。それはもしかしたら、聞く力を信じていないからかもしれませんね。聞く力を信じないと、饒舌になるか無口になるしかない。


ことばが伝える力を持っているのは、ことばにはもともと求心力と遠心力があるからです。求心力というのは、そのことばで特定のものを想像できるということ。遠心力というのは、そのことばからいろんなことが連想できるということ、だから伝える力というのは、話す力と同時に、聞く力があって成り立つものなのかもしれません。


ことばのすごさは、見えないものを伝える力のあるところです。気持ちとか理由とか思い出とか夢とか、見えないものを語り合っていく、そこに大切なものがあり、それが未来を紡ぐことばになっていくのではないでしょうか。


○福岡伸一(P27)
「うまくことばにできないのだが・・・」

という言葉を決して使わないようにする。言葉にできないことはたくさんある。それでも言葉と文体を探し、できるだけ高い解像度でそれを語ろうとすることが、言葉の力を信じるということだと思う。





話は変わって、最近思うこと。
メディアとしてのネットが「言葉足らず」になりすぎていると思う。


僕は仕事でアクションメディアに関わっているけれども、ネットも成熟してきていて価値変換システムとしての情報メディアがいわゆる街のコンビニの域をでていないんじゃないかと思う。


ネットの可能性は良く言われる議論で多分、無限なんだけど、僕らの体力、知力、能力には限界があるし、そもそも時間だって有限だ。


有限の中で幸せを最大化すること。
前提として新しい気付きを得られる感性を持っていること。ここを忘れがちだと思う。


流れに身を任せてみんなが不感症になったらセックスを楽しいっていう人がいなくなってしまう。
でもなんだかそんな風になってきているように思う。


多分検索の自由って、格差社会みたいなもんで、自由度がありそうで実はそんなに自由度がなさそうで、アクションに固執した結果、そういう意味で、ネットの可能性を狭めるなっていいたい。


AISAIとかじゃ人はなかなか動いてくれない。
僕は、I-AISASとかまで行かないと動いてくれないと思ってるしそれが「おもてなし」っていう概念。


情報は創発するから、文脈をもっと大切にしないといけないんだと思う。
最近ずっとそればっかり。


どんな広告もやっぱり希望を与えてなんぼ!
がんばらなきゃね。